きおく
ふと、地雷を踏んでしまった
吐き出さないとどうしようもないので、繋がっていそうで繋がっていなくて繋がってるアカウントを選んだ
満足したら、足がつかないように消すのかもしれない
大人になってから予想以上に親子関係が上手くいってない人たちに沢山会った
それまでは自分だけだと思ってたから驚きだった
母の記憶がほとんどない。
9歳すぎまで一緒にいたのに薄情だな、と思う
ただ、毎日毎日母といる時は怒られていた。
母の機嫌をいくら伺っても何かしらで怒られる。理由は分からない。要するに母の都合のいいサンドバッグだったのだと思う。
もともと、精神疾患はあったようだ。
母の母もそうだった。母の父は、判断のつかない母の母をただ性欲の処理に使っていたらしい。
母の兄は借金で夜逃げ。
別に私の人生に関係のある話ではない。でも、あまりにも身近すぎて怖い。その血が流れている。
家族愛を知らないまま母は育ったのかもしれない。
金が足りなければ借金をすればいい、といった価値観が受け継がれていたようだ。
私を産んで、精神疾患は再発した。
24歳と0歳の2人の赤子を父は一気に抱えた。
食事も風呂も排泄も全て1人ではできない母。
やや回復したあとも、度々どうすればいいかわからず育児放棄状態だったようだ。昼間毎日赤ちゃんの鳴き声がすると苦情が入っていたらしい。
物心がつくと、精神疾患がひどいときの母の方が好きになった。
ぼーんやりしてていつもにこにこしてて膝に乗っても怒られない。
いつもはくっつくことさえ許されない。
ぶたれることはなかったが、四六時中言葉で縛られていたのだと思う。精神疾患でない優しい母の記憶はない。打算的な優しさを感じたことはあるが。
それからしばらく小康状態が続き、私の事故をきっかけに再発。
家庭は壊れる方へと向かった。
結果的に、離れてよかったんだと思う。
小学校までは、テストで満点を取ったり賞状を沢山乗れば母が振り向いてくれると思ってた。
でもそれは無理なのだ。
愛されたいが拒絶はされたくないという感情が幼児のままひどくこびりついている。
無償の愛を探し求めている。
馬鹿馬鹿しいとはしりながら、自分と酷似した同級生の過去を知り苦しくなった。
大学生になって、どうして謝るの?と聞かれたときにわからなかった。
相手の気分を損ねたくない。
それが1番の自分の優先事項。
攻撃されたくないから。
次に相手に嫌われたくない。
そうすると自分の意見を言うのではなく、相手の出方を探るようになる。
だからこそ、探らせてくれない相手が1番苦手だ。沼に足を踏み込むようで、正解もわからず何も楽しめない。
何が言いたいか分からなくなってきた。
ただ、逃げたような気もする。でも向き合うには幼すぎた、と言い訳して終わろう。
いつかのカフェ
久々にひとりでカフェに立ち寄った。
どことなく、去年訪れたあの場所を思い出させるような店内だった。
レジに店員が1人立っている。
カウンターにはコーヒー豆が入った瓶が3つ。
いかにも甘だらしそうなチョコレートブラウニーがショーケースの中で冷えている。
頭上にはメニューを書いた黒板。
そこにhot chocolateの文字があれば完璧だった。
ここにはないはずの異国の地で見つけた空間に再び入り込んだように思えた。
ハーブをふんだんに使った料理は初めてで、口に入れる度にびっくりしていた。
ローズマリーくらいしか知らない。
食事を終えて、店内の雑貨を見て回ると驚くことにあそこで買ったものが並べられていた。
こんな偶然があるのだろうか?
きっと次は、一緒に旅をしたあの子と訪れたいなあ…
追記
あの紅茶はこのカフェのもの
紙一重
ひさしぶりにふらりともどってきた。
午後の授業が不意につぶれてしまったけれど、何もする気が起きなくて、カタカタこれを打っている。
大学が始まってから余裕がゼロだったので、全くブログを書かなくなった。
たくさんたくさんあれから考えたことがある。
全部書くには時間が足りなさそうだから、今考えていることについて書く。
片手には生がいる。
そしてもう一方の手には死がいる。
まだ、死の手を振りほどけないし、多分生まれてこの方ずっと片方の手を死と繋いでいたんだからしょうがない。
去年のちょうどこの時期、生に差し出していた手を振りほどこうとした。
死と両手を繋ごうとした。
苦しさから逃れるために、手段がそれしか思いつかなかった。
最近は生とつないだ手を強く握りしめている。
死から手を引かれることはほとんどなくなり、おとなしく静かに手を繋いでいるだけで、意識しなければ手を繋いでいることも忘れそうになる。
たぶん、心が満たされたのだと思う。
ずっとずっと欲しかったものが手に入った今、生きることが苦痛ではなくなったのだ。
小さいころからずっと欲しかったもの。
それを手放さないように、ずっと手を握り続けていたい。
一番弱かった部分を優しさが埋めてくれたのでもう大丈夫だと思う。薬よりカウンセリングよりも何よりも一番心の底から効いた。
幸せな感情があることをここに残しておくのも悪くないよね。
怒りの意味
人はどうして怒るのかな、と思う。
怒るのにはすごくエネルギーを使う。
ちゃいろこびんが怒りたくなる相手は決まって嫌いな相手だ。
心の底から嫌なことをされた時に怒りがふつふつと湧いてくる。
でも後で冷静になるとなんで嫌いな相手のせいで私の感情がかき乱されているんだろう、とも思う。
無駄なエネルギーの消費でしかないのに。
その期間に幸せなことを考えていればいいはずなのに。
楽しい生活を送る上ではすごく生きづらい感情を持ったものだなあと思う。
怒りは何のためにあるんだろう?
ちゃいろこびんが怒りを有効活用できたことがある。
大嫌いな先生の教科を誰よりも得意になったことだ。
怒りを自分のための原動力に変えればいいのかもしれない。
でも、今まで1度しか成功しておらず、それ以外はかき乱されっぱなしだ。
どうして嫌なことをされて怒るのだろう?
どうして忘れることをしないのだろう?
どうして無視することをしないのだろう?
怒りの意味ってなんなのかな。
月蝕うさぎ
ちゃいろこびんはお絵描きが好きです。
基本的にいつも書くのは動物の模写。
自分が可愛い!たまらない!と思った動物の写真を見つけてはガリガリ描きます。
実は1冊の小説のような表紙のノートに絵を書き溜めています。
ちゃいろこびんだけの、好きが詰まったイラスト集です。
誰かに見せる前提じゃないからジャンルもばらばらで本気度もばらばらだけど、大好きな自分の絵を振り返ることが出来て満足しています。
ちゃいろこびんが動物の模写の次に描くのが好きなのは、誰かと何かを話した時のエピソードを絵にすることです。
ある話題でちゃいろこびん自身が考えたことであってもいいし、相手がなげかけてくれたものでもいい。
ただただ、素敵だなって思った瞬間を絵にするのが好きです。
月蝕うさぎは、ふたつのエピソードからできています。
ひとつは、満月より欠けた月の方が好きだといっていた知り合いのはなし。
もうひとつは、先日作った月に見えるプリンのはなし。
うさぎがもぐもぐかじったから、三日月になって新月になっちゃった。
そんな神話があってもいいような気がします。
もちろん、現実的に考えて固い岩石を噛み砕けるほど強靭な顎を持ったうさぎはいないことも、月をくわえられるくらい大きなうさぎが宇宙にいたら困っちゃうこともわかっています。
でもそれはあくまで科学の世界の話。
いわゆる、今の時代の王道の考え方の話。
たまにはそこから外れて、自分の物語で世界を切り取りたくなるのです。
こんなことを書いていたら、お月様をとって欲しいとせがむ絵本を思い出しました。
好きだったな。
さあ、今日も夜空ではうさぎがもぐもぐ美味しそうに月を頬張っているのかもしれません。
PS.月の模様にめちゃくちゃこだわりました。たのしかった。
肩書きをなくした世界で
ゴロゴロ…ひゅーと雨が鳴いています。
ぐぐっとさむくなったので、布団にまるまったままこれを書いています。
最近すごく重苦しい足枷をはめられていて心苦しくなります。
ちゃいろこびんが所属する学部はいわゆるリベラルアーツに近い形態をとっています。アメリカのダブルメジャーにも近い形になっています。
(これ以上説明すると特定されそうなのでこの辺でやめにしますが)
他の学部とは違い、学部自体がなにをしているのかあらわしにくい。
教育学部や文学部、医学部、理学部、工学部などの学部はいわゆる方法論ベースの学びを重視しているところが多いのではないかな、と思います。
でも、ちゃいろこびんは、学部で専門的に何か一つの系統だった学問を深めることはしません。
厳密にいうと、自分で深めたい分野を複数決めて学部の授業を上手く使いながら授業外や他学部の授業で専門性を磨いています。
ただぱっとみでは、先程も述べたようによく分からない学部、で片付けられてしまうことが多くて。
ちゃいろこびんは、何かを議論する際にどうして学部が必要なんだろう、と不思議でなりません。
文学部は文学部でも、みんながみんな古文が得意で詳しいわけでもなければ、教育学部がみんな先生をめざしているわけでもありません。
そこにはひとりひとりのまなび方とまなんでえたものがあって、まなびたいものも違って。
でもなかなか社会や周囲はそこを見てくれない。
どこにいるかという変えようも無い所属を問うてくるのです。
肩書きのない世界に行きたくなりました。
でもちゃいろこびんから全ての肩書きを抜き去った時に、ちゃいろこびんは自分自身を自分だとみなす自信がなくなってしまうような気もします。
自己ってなんなんでしょう???
なにが「i」を構成しているのでしょう。
ちゃいろこびんはちゃいろこびんをちゃいろこびんたらしめているはずのものに苦しめられてるのかもしれません。
PS.ちゃいろこびんって打つの疲れました。もっといい一人称が見つかるまでは当面このままですが。
夜明けに
夜が来ることが嫌いでした。
つい最近まで、明日になるのが怖くてたまらなかったから。
今日を生きることがつらくてたまらなくてしんどいのに、もう明日に変わってしまう。
今日を好きになれないのにまた明日が来てまた今日が始まってまた苦しくてたまらなくなるループの繰り返しにうんざりしていたのだと思います。
ちょうど、RADの夢番地のサビまでの歌詞がそのものです。
夜が明けはじめると、あきらめと共に少しだけ眠る、ということも多かったような気がします。
最近はもうこの状態を脱したのですが。
過去に囚われていたせいか今日を見ることも明日を見ることもできなくなっていたのだなあと思います。
夢番地のように明日を迎えに行かなくては。
夜の間に身支度を終わらせて必要なものをリュックに詰め込んで。